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「20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―」@国立新美術館
行ってきました。 行く前に、ちょっとしたトラブルに見舞われましたが。 (C学の方々にはご迷惑おかけしました) 良い天気でよかったです。 絶好の観光日和。 外観はこんな感じ。 壁面が丸く、斬新な建物。 掃除どうするんだろうと、ちょっと思いました。 ちなみに入口はこんなです。 手前の部分は入口でなく、傘立てです。 普通の人なら、ここがチケット売り場だと誤解すると思うよ。 ちなみに私は桜木町のインフォメーションセンターを連想しました。 あと、入口を見てソルト&ペッパーのボトルを想起するのは、私だけじゃないと思うのですが。 展示、面白かったです。 現代美術って自分には合わないかと思ったのですが、意外にいけました。 いや、結構気に入りました。 特にⅠ部とⅢ部(の一部) Ⅱ部のも好きなのはあったのですが、わからない物の方が多数。 コラージュはよくわからないです。 以下、各部毎の感想+考えたこと。 作品名は曖昧なので参考レベルで。 考えたことは長いですよー。 +Ⅰ部+ 何処の美術展行ってもそうなのですが、最初って上手く見れないね。 まだ思考が美術にシフトしてないせいか。 なので、最初の方の感想はあまりないです。 ピカソとかブラックとか出されてもわからないのですよ……。 では、断片的に感想を。 記憶が頼りなので、間違ってるかもですが。 「風車と花」などの戦時中の作品が、単なる静物画に見えませんでした。 赤いんだもん、全面赤なんだよ。 確かに風車と花は赤いでしょうが。 蝙蝠とミシンのタイトルがすごい好き。 でもよく考えれば、確かに“like”だよね。 それを考えた上で見ると、あの画は面白い。 あれはタイトルも含めて、「作品」なんでしょうね。 種痘を受けたパンや、パイプとガラス球のように。 +Ⅱ部+ 前述通り、わからない物が多数だったのですけど。 特にポスターがわからなかった。 あれは、ポスターが芸術的なのか、芸術がポスターに進出したのか。 どちらなんでしょうね。 キャンベルスープも、有名なのは知ってるんですが、いまいちピンと来ない。 キャンベルだ、スープ缶だ、以上。 (……私に芸術的素養を求めてはいけないと思うのですよ) 感銘を受けた、までは行かないのですが、ティーセットが気に入りました。 カップが半分に割れるやつです。 あのセンスは好き。 白い陶磁器で角ばった感じにしたのが良い。 使い勝手は悪そうだけど。 (こういうところが庶民的) +Ⅲ部+ ラストの田中功起とマイケル・クレイグ=マーティンがヒット。 田中功起はシニカルな視線が良い。 シニカル、とは少し違うかな。 俯瞰、もしくはズレ。 普段使っているガラスコップの光の透過が美しいよね、と言われてるような。 そんなイメージ。 世界は美しくて、芸術的で、それを皆にわかってもらいたい。 空間毎に、その場にしか存在しない美があるでしょう。 そんな声が見えるような作品でした。 マーティンは、世界って美の塊だよねと語りかけてくる感じ。 語りかけると言うか、叫ばれると言うか。 美を創作したいんだ、美はそこにあるんだ。 芸術家でありたい、って気持ちがそのままぶつかってくる。 自分の“見つけた”美を、皆に知ってもらいたい、理解してもらいたい。 この作品を見てる人に、素敵でしょうって同意を求めている気がする。 その感情が好きで、ずっと作品を見ていたくなる。 ……体力的にもちませんでしたが。 +総括及び雑感+ 何の美術的素地も持たない人間の思考です。 展覧会主催者・創作者の意思はおいといて(こら)話が進みます。 ご了解を。 今回、20世紀の芸術の変遷を見た気がしました。 20世紀というのは、「美術」が「アート」に変貌した時代だと思う。 芸術の拡張・侵食が起きた時代。 昔の美術は、誰にでもわかる(と言うのもおかしいけど)美だったのですよ。 作品単体で全てが成立してしまう美。 その一部だけでも、これは美術だとわかる美。 ボッティチェリの「春」を、美しい絵だなと思わない人はいないと思います。 そして、三美神の部分だけ切り取られても、これは芸術作品だとわかる。 美しいと思える。 「春」というタイトルがなくても、ある程度の鑑賞は可能である。 (絵の意味はわからないでしょうけど) キュビズムぐらいの時代になってくると、こうはいかなくなりますよね。 (この時代、苦手なので断定できないのですが) ピカソの「ヴェロニカ」の一部を切り取ってきても、多分駄目だと思う。 そこから人一人分ぐらい切り出されても、デフォルメされた絵に成り下がってしまうのではないか。 (ある程度のであれば、OKかもしれませんが) 部分の技術、美しさが重要ではなくて、キャンバス全体で表現されるようになってきた。 言い換えると、自由度が減ってきた。 即物的美ではなく、根本的な美を探るようになってきた。 そんな気がします。 でも、まだこの時代は作品単体で見ることができた。 「ヴェロニカ」だって、タイトルがなくても作品の意思は伝わってくる。 タイトルがなくても絵を見ればその美がわかる。 確かに、作品の深い理解には欠かせないかもしれません。 それでもやはり、鑑賞の補助レベルを超えることはないと思うのですよ。 タイトルがわからなくても、小さな損害にしかならない。 作品のエネルギィは十分に感じることができる。 現代美術はこうはいかない。 タイトルすら、作品のうちに取り込んでしまっている。 Ⅰ部の所でも書きましたが、タイトルがないとその作品は成立しない。 それこそ、“物”になってしまう。 タイトルがあるから芸術になって、アートになる。 それじゃあ、文学的センスがアートかというとそうでもない。 タイトルを付ければアートになるのではなく、アートだからタイトルが付く。 アートがあるのが先で、タイトルは後。 タイトルにアートはなく、タイトルはアートの一部でしかない。 一番的確に表現したと思うのですが、飛び過ぎてる気もするので蛇足。 有名所でデュシャンの「泉」。 あの芸術センスは私にはついて行きかねる所があるので、良し悪しは言えないのですが。 少なくともデュシャンはあれを美しいと思ったんでしょうね。 あれは芸術的だと思った。 だからタイトル付けて出展しようとした。 この時、デュシャンが「美しい」と思った時点で、もう「アート」なんですよ。 タイトルもない、他人から見れば単なる“物”でしかないけど。 でもそれはもう、紛れもないアート。 アートが生まれたから、タイトルが付いた。 それによって、他人にも「アート」なんだとわかるようになった。 そしてタイトルがないと、「アート」は作者以外には見えない。 だからタイトルは必要不可欠。 ぶっちゃければ、作者本人にはタイトルは要らないのですよ。 極論的には作品自体も不要。 作品を見た時の美しいという感情、それだけで良い。 それ自体がアート。 感情自体、というと語弊があるな。 作品を見た時に垣間見える美の世界、異次元空間。 それがアート。 昔も今も、芸術家はこの世界を我々のいる空間に存在させようとしてるのだと思います。 そういう動きが芸術活動なんじゃないかと。 そしてその手段が、技法が、変わってきた。 それが芸術の変遷なんじゃないかと思うのですよ。 昔の芸術はタイトル不要だと、上で述べましたが、極端すぎるので訂正します。 タイトルの重要度が低かった。 これがわかりにくいけど、正しいと思う。 作品自体で美の世界を表そうとしたから、タイトルは重要でなかった。 時代が移るにつれ、美を表すための手段が広がってきた。 それは人の思考であったり、作品の置かれる空間だったり。 タイトルだったり、光だったり。 人間の記憶だったりもする。 田中功起やマーティンもこの流れに乗っている。 だけど、また少し軌道が変わってきてる気がします。 どこが、と言われると返答に窮しますが。 無理に書けば、直感的に「アート」だとわかりにくくなってきた、ということでしょうか。 提示される美は確かに美であって、アートなのだけど。 今までのように、美であることがストレートに伝わってこない。 その美を知るために立ち止まる必要がある。 must stop to find it out. 特に田中功起の作品は、雑踏の星のようだ。 誰も見上げることなく、気づくこともなく。 皆はすごい勢いで歩き、通り過ぎる。 でもふと立ち止まって、空を見上げれば。 自分の周囲の時間から、切り離された星が輝く。 その美しさはある意味、冷笑的で自虐的。 でも気づいてしまえば、見とれてしまう。 そんなイメージがある。 でもよくわからない。 現代はあまりにも近過ぎるから。 あまりにも長くなったので、このあたりで。 PR |
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